穏やかな湖面が、山に囲まれて姿を現した。氷極は湖に足をつけて山々を眺めるシュエと再会する。
女騎士の追撃がないことを確認し、慎重に北に進むと現れた道標に従い到着。確かに湖自体はさほど大きくはなく、自然に囲まれ、人気もないので丁度よかった。
「生きて帰れたようじゃのう。流石と言うべきか」
「そちらも無事で何よりだ。だが、悠長な事はしていられない」
氷極は気持ちを切り替えて、今後の方針を固める。だが話さずとも互いに、"氷極の組織と合流する"ことは共有されていた。
そのためにドルゾートへと向かうことも。
シュエはどこか深刻そうな顔つきで、氷極を見つめていた。
「ドルゾート近辺に出れば俺も地形の知識はある。そこまでは、すまないがまだ頼らせてもらわなければいけない」
しかし彼女からの応答はなかった。冷ややかに、ただ不気味に氷極を見つめる。
「……」
「……どうした?」
そこから沈黙が降りる。
氷極は何故黙り込むのか、不思議でならない。シュエは腹を括るように軽く宙を眺めた後、少し顎を引いて目を瞑った。
「悪いが。それはもう、できぬ。いやもうぬしを、この先にいかせることはできん」
初めてシュエが氷極に向けた敵意だった。
聞き間違えか、と疑うほどにその言葉が頭に行き渡らない。繋いでいた思考の糸が、勢いよく紐解かれていく。
彼の心に何かが、重くのしかかってきた。
「何を、言ってるんだ……?」
ようやく紡ぐ声色は震えている。
それに現実を突きつけるシュエの棘は、あまりにも容赦がなかった。
彼女の緑の瞳が、暗い光をともない開く。
「言葉通り。ぬしをドルゾートへ向かわせる訳にはいかぬ」
「なんでだ? シュエが、俺とは相入れない立場だからか?」
シュエは躊躇うことなく頷いた。
「無論じゃ。ぬしにも戦う理由があるように、わしにも成さねばならぬことがある。故に、これ以上の接触は不要と判断した」
はっきりと言い渡された拒絶。自分の見てきたシュエの実像が音を立てて崩れる。
それでも……自分を気遣い、語り合うシュエの姿が記憶に焼き付き離れない。分かりきっていたことを未練がましく、氷極は説得にもならない言葉で弱さを晒す。
「……シュエ。貴方は俺と反対でありながら、VICEに対して疑問を抱いていた。俺は組織の歪みを受け止める姿勢を尊敬していた。あの言葉は嘘なのか?」
シュエはかぶりを振った。
「偽りではない。わしの疑問は、本音じゃ。少なくとも、ぬしに感化されたことは認める。じゃがわしにも立場と属する居場所がある。わしを信じてついてくる顔がある。目的がある。それとこれとは、話は別じゃ」
「ならば、何故あの時……。あの林の密会で迷う俺に自分だけではないと投げかけた。あれは、俺を導く為に示した選択肢じゃなかったのか?」
その両目は氷極を視線で捉えて離さない。冷や汗がつたう彼とは対照的に、シュエは長いため息を吐く。いや、ただ息を吐き出しただけかもしれない。
降らぬと思った灰色の空から、水滴がこぼれ始めた。
「あれは立場を無視した上での言葉。じゃが、今は違う。詭弁と言われようが、手の平を返す軽薄さであろうが、わしにも立場がある。それにの、わしはぬしが憎む『悪』そのものじゃ」
引き裂かんと振る舞うシュエは、やはり心のどこかで痛みを感じていた。
これは決して、裏切りではない。氷極がただ敵であるシュエに深入りしただけの話だ。
その上で陣営が明確になりながらも、氷極は絆された心を捨て去れなかった。
それは彼が未来の為にと投げ打った中で、唯一残った"心"だったからだ。
目的がなく組織に依存し、無意識に求めていた人への感情。それが仇となり、破滅に向かったのは独りよがりな己への罰。
「……そうか。俺は、見えていなかったんだな」
グッと唇を噛む。
敵は獣じゃない。思考する理性があり、武器を握る理由があり、守るべき信念と人がある。それは平等にあるものだと言われても、腑に落ちなかったのはひとえに氷極の弱さなのだ。
だが同時にそれを痛感するのも、彼の強さだった。
「……それでも俺は、ドルゾートへ行く」
「本気で、言ってるんじゃな」
「あぁ。シュエにもやらなければならないことがあるのなら。俺も貴方を倒して、自分が成すべきことを成す」
"解放"。
吹き出した感情と共に、氷極の出力は無遠慮なものとなる。
湖が一瞬にして凍り、山の側面が樹氷を帯びた。雨は薄い氷となって、地面に細かく散らばる。
全ての景色が"灰"の氷に満ちていく。
手のひらで閃く雷は、既にシュエを仇なす存在と認め強烈にほとばしっていた。
しかし、シュエは一切動じることはなく逆に微笑してみせる。
「やはり、想定通りじゃった」
「……なにがだ?」
「ぬしとまともに戦うことは危険じゃ、ということよ」
訝しむ氷極の鼻腔を甘い匂いが包む。
シュエが麻袋から取り出し、放ったのは香水だった。
彼がその意図を探ろうとしたその時、視界がぐにゃりといきなり歪み始めたのだ。
「なっ、なんだっ……」
平衡感覚を保てず、膝をつく。意識すらも危うい状態に陥った。
脳が酸素を求め、息が荒くなる。揺らぐ景色の中で、不敵に笑むシュエを睨んだ。
「苦しいか? そうじゃろうな。ぬしの夕餉に一服盛ったからの」
「な、んだと……」
「この香水に反応する特殊な毒じゃ。わしには効かぬぞ? 既に解毒しておるからの」
周囲の灰氷が氷極の使役を失い、美しかった山がその景色を取り戻していく。
体が脱力し、氷極は地に倒れ伏す。
消えゆく意識の中で、シュエは最後に言葉を残した。
「安心するのじゃ。死に至らす毒ではない。今はただ眠るがいい」
氷極は完全に意識を手放した。
ーーー
冷たい水滴が氷極の頬に降る。
彼の失った意識がゆっくりと帰ってきた。
不安定な視界はやがて明瞭となり、思考もクリアになっていく。
腕を上げようとすると、重みがそれの邪魔をする。両腕と足に枷が繋がれているようだ。
目の前には鉄製の柵。ここが牢獄であることを徐々に認識する。
こっくりと、力無く氷極は項垂れた。
分かっていたことだ。シュエが敵であり、異なる思想と目的を掲げていたことも。割り切れなかったことを今更悔いるつもりはなかった。
起こってしまったことは覆らない。だが、自分の思考を反省することはできる。彼の中で"敵"という存在が少しづつ塗り替えられ始めていた。
すると湿った空間に、足音が響き渡る。靴音ではないあたり、それが誰であるか氷極には察知できた。
「……シュエ」
「目を覚ましたか。E5リーダー、"氷極"よ」
決別したはずの意志が、再び相見える。
『続』