雑置き場

触発されたり、思いついたり。気分なので不定期更新。

THE Empty 五話

 


 穏やかな湖面が、山に囲まれて姿を現した。氷極は湖に足をつけて山々を眺めるシュエと再会する。

 女騎士の追撃がないことを確認し、慎重に北に進むと現れた道標に従い到着。確かに湖自体はさほど大きくはなく、自然に囲まれ、人気もないので丁度よかった。

「生きて帰れたようじゃのう。流石と言うべきか」

「そちらも無事で何よりだ。だが、悠長な事はしていられない」

 氷極は気持ちを切り替えて、今後の方針を固める。だが話さずとも互いに、"氷極の組織と合流する"ことは共有されていた。

 そのためにドルゾートへと向かうことも。

 シュエはどこか深刻そうな顔つきで、氷極を見つめていた。

「ドルゾート近辺に出れば俺も地形の知識はある。そこまでは、すまないがまだ頼らせてもらわなければいけない」

 しかし彼女からの応答はなかった。冷ややかに、ただ不気味に氷極を見つめる。

「……」

「……どうした?」

 そこから沈黙が降りる。

 氷極は何故黙り込むのか、不思議でならない。シュエは腹を括るように軽く宙を眺めた後、少し顎を引いて目を瞑った。

「悪いが。それはもう、できぬ。いやもうぬしを、この先にいかせることはできん」

 初めてシュエが氷極に向けた敵意だった。

 聞き間違えか、と疑うほどにその言葉が頭に行き渡らない。繋いでいた思考の糸が、勢いよく紐解かれていく。

 彼の心に何かが、重くのしかかってきた。

「何を、言ってるんだ……?」

 ようやく紡ぐ声色は震えている。

 それに現実を突きつけるシュエの棘は、あまりにも容赦がなかった。

 彼女の緑の瞳が、暗い光をともない開く。

「言葉通り。ぬしをドルゾートへ向かわせる訳にはいかぬ」

「なんでだ? シュエが、俺とは相入れない立場だからか?」

 シュエは躊躇うことなく頷いた。

「無論じゃ。ぬしにも戦う理由があるように、わしにも成さねばならぬことがある。故に、これ以上の接触は不要と判断した」

 はっきりと言い渡された拒絶。自分の見てきたシュエの実像が音を立てて崩れる。

 それでも……自分を気遣い、語り合うシュエの姿が記憶に焼き付き離れない。分かりきっていたことを未練がましく、氷極は説得にもならない言葉で弱さを晒す。

「……シュエ。貴方は俺と反対でありながら、VICEに対して疑問を抱いていた。俺は組織の歪みを受け止める姿勢を尊敬していた。あの言葉は嘘なのか?」

 シュエはかぶりを振った。

「偽りではない。わしの疑問は、本音じゃ。少なくとも、ぬしに感化されたことは認める。じゃがわしにも立場と属する居場所がある。わしを信じてついてくる顔がある。目的がある。それとこれとは、話は別じゃ」

「ならば、何故あの時……。あの林の密会で迷う俺に自分だけではないと投げかけた。あれは、俺を導く為に示した選択肢じゃなかったのか?」

 その両目は氷極を視線で捉えて離さない。冷や汗がつたう彼とは対照的に、シュエは長いため息を吐く。いや、ただ息を吐き出しただけかもしれない。

 降らぬと思った灰色の空から、水滴がこぼれ始めた。

「あれは立場を無視した上での言葉。じゃが、今は違う。詭弁と言われようが、手の平を返す軽薄さであろうが、わしにも立場がある。それにの、わしはぬしが憎む『悪』そのものじゃ」

 引き裂かんと振る舞うシュエは、やはり心のどこかで痛みを感じていた。

 これは決して、裏切りではない。氷極がただ敵であるシュエに深入りしただけの話だ。

 その上で陣営が明確になりながらも、氷極は絆された心を捨て去れなかった。

 それは彼が未来の為にと投げ打った中で、唯一残った"心"だったからだ。

 目的がなく組織に依存し、無意識に求めていた人への感情。それが仇となり、破滅に向かったのは独りよがりな己への罰。

「……そうか。俺は、見えていなかったんだな」

 グッと唇を噛む。

 敵は獣じゃない。思考する理性があり、武器を握る理由があり、守るべき信念と人がある。それは平等にあるものだと言われても、腑に落ちなかったのはひとえに氷極の弱さなのだ。

 だが同時にそれを痛感するのも、彼の強さだった。

「……それでも俺は、ドルゾートへ行く」

「本気で、言ってるんじゃな」

「あぁ。シュエにもやらなければならないことがあるのなら。俺も貴方を倒して、自分が成すべきことを成す」

 "解放"。

 吹き出した感情と共に、氷極の出力は無遠慮なものとなる。

 湖が一瞬にして凍り、山の側面が樹氷を帯びた。雨は薄い氷となって、地面に細かく散らばる。

 全ての景色が"灰"の氷に満ちていく。

 手のひらで閃く雷は、既にシュエを仇なす存在と認め強烈にほとばしっていた。

 しかし、シュエは一切動じることはなく逆に微笑してみせる。

「やはり、想定通りじゃった」

「……なにがだ?」

「ぬしとまともに戦うことは危険じゃ、ということよ」

 訝しむ氷極の鼻腔を甘い匂いが包む。

 シュエが麻袋から取り出し、放ったのは香水だった。

 彼がその意図を探ろうとしたその時、視界がぐにゃりといきなり歪み始めたのだ。

「なっ、なんだっ……」

 平衡感覚を保てず、膝をつく。意識すらも危うい状態に陥った。

 脳が酸素を求め、息が荒くなる。揺らぐ景色の中で、不敵に笑むシュエを睨んだ。

「苦しいか? そうじゃろうな。ぬしの夕餉に一服盛ったからの」

「な、んだと……」

「この香水に反応する特殊な毒じゃ。わしには効かぬぞ? 既に解毒しておるからの」

 周囲の灰氷が氷極の使役を失い、美しかった山がその景色を取り戻していく。

 体が脱力し、氷極は地に倒れ伏す。

 消えゆく意識の中で、シュエは最後に言葉を残した。

「安心するのじゃ。死に至らす毒ではない。今はただ眠るがいい」

 氷極は完全に意識を手放した。

 


ーーー

 


 冷たい水滴が氷極の頬に降る。

 彼の失った意識がゆっくりと帰ってきた。

 不安定な視界はやがて明瞭となり、思考もクリアになっていく。

 腕を上げようとすると、重みがそれの邪魔をする。両腕と足に枷が繋がれているようだ。

 目の前には鉄製の柵。ここが牢獄であることを徐々に認識する。

 こっくりと、力無く氷極は項垂れた。

 分かっていたことだ。シュエが敵であり、異なる思想と目的を掲げていたことも。割り切れなかったことを今更悔いるつもりはなかった。

 起こってしまったことは覆らない。だが、自分の思考を反省することはできる。彼の中で"敵"という存在が少しづつ塗り替えられ始めていた。

 すると湿った空間に、足音が響き渡る。靴音ではないあたり、それが誰であるか氷極には察知できた。

「……シュエ」

「目を覚ましたか。E5リーダー、"氷極"よ」

 決別したはずの意志が、再び相見える

 

 

 

『続』