「ほれ。はようここまで来い」
「あぁ……分か、ってる。ま、待て……」
息を切らしながら、手がかりを探す。なんとか握り、再び体を上げる。また、手がかりを探す。気が遠くなるほど、これを繰り返している。時間も体力も奪われていくのを知りながら、ただ彼女を氷極は信じていた。
シュエと氷極が登っていたのは険しい岩肌だ。彼女は忍者のような身軽さで登るが、氷極はそうもいかない。息を荒げて、ただよじ登り続けていた。
頂上が見えてきた頃、いち早く着いたシュエはよじ登る彼を軽くからかう。
「このような山でへばって貰っては困るな。それとも能力を使えばよかろう」
「ダメだ。何度も言うが、能力にも、体力がいるっ! 約束のために温存するのが、定石だろっ」
「ほうほう。男というのは奇怪よな。そんなにわしは庇護欲がそそられるか?」
「そんな、わけ! 俺は約束を、守る、だけだ! それに"あんなの"はいつも通りだよ!」
氷極は言い切ると同時に岩の上に到着。腰をつき、苦しそうに肩で息をする。
それを静観をしていたシュエは、道中の彼の行動を想起していた。
この荒野で近道を選ぶとなると、安全性に乏しい道となる。もちろんシュエはそれを承知していた。
いざ足を踏み入れた瞬間、予定調和のように凶暴な生物が次々と牙を剥く。集団もあれば、個で襲いかかるものもいた。
しかし氷極はことごとくを退ける。死地を渡り歩いたその実力は、シュエも評価していた。
だが、時間を掛ければ数も増える。ボロボロの氷極もよく戦った上、約束通り一切手出しさせなかったし、彼女も手を出さなかった。
そんな戦いの中で、彼女は氷極のある行動に違和感を覚えた。
それはシュエが標的になった瞬間の、氷極の"異常なまでの守り"。自分の身を犠牲に、とはまさにこのことかと彼女は実感する。まるで別の何かが、彼に乗り移ったかのような過剰さは動揺を誘った。
"何かを抱えているな"。
この異変を彼女はそう推し量る。
氷極を保護した時から違和感はあった。溢れ出る異質な匂いには今なお興味はある。
珍しい境遇への好奇心だが、彼女は中々それを切り出せずにいた。
「さぁ。次はどうすればいい? 今度はどこへいくんだ」
そんな余裕ぶれる程の体力など底尽きているはずだ。氷極を突き動かすのは、やはり昨日言っていた組織か。目的がないとはいえ、自己を切り捨てすぎではないだろうか。
シュエは一転、少し感傷する。あまりにも氷極のスタンスは理解できないからだった。
「……のう、ぬし。わしに文句の一つもないのかえ?」
口からポロリと本音がこぼれる。何故、この男は言い掛かりの一つも言わないのか。
「文句? 逆にどこにそんな無礼をはたらく必要があるんだ」
疲労の滲む彼の汗顔には、真剣味すら感じ取れた。その言葉のありかが本心であると知り、シュエは内心でため息を吐く。
「さんざん殺し合った後に、こんな険しい岩に登らせるたわけなどそうそうおらん。近道とはいえ、ぬしはその受難に何も思わぬのか?」
「何も思わないな。貴方は俺を助ける為に案内をしてくれている。その厚意を疑う方が失礼だろう」
「じゃが、もっと手心を加えれると思わないのか?」
「ない。必要ならば受け入れる。それだけだ」
シュエは不思議でならない。反抗する意志が皆無だからだ。多少の反感というのが、彼女の知る人情のはずだ。
行き違う感覚に、押し黙ってしまう。
一方の氷極はただ上から見据える彼女を疑問に思う。
「どうした? 早く行こう」
氷極は立ち上がり砂埃を払うと、下り坂となっている広い岩の道を淡々と歩んでいく。
「……なんじゃ、あいつは」
この険しさに文句の一つもない。
約束は律儀に守る。
放つ言葉に嘘偽りがほぼ混じらない。
本来ならこんな事実、不都合がなく便利だと流すのが常だ。だが氷極が抱える"何か"という事情が、シュエの好奇心を次々と派生させ、後押しする。
らしくないな、と首を傾げてシュエは氷極を追いかけた。
ーー
「なんだ、もう火を焚いてたのか」
「うむ。食糧の調達は今朝抜けた地で済ましたじゃろう? ぬしもご苦労だったな」
パチパチと跳ねる火の音が、苛烈な道中とは変わり安心感を与えさせる。心地よい夜の静寂と風が、小さな洞穴に充満していた。
拾った薪を下ろして手を清潔にした後、食材を捌くシュエに氷極は語りかける。
「手伝うか?」
「不要じゃ。寄りかかりすぎるのは性に合わん」
「そうか。何か必要なら言ってくれ」
そういって氷極は焚き火を挟んでシュエの対面に座った。
すると自分のメンテナンスなのだろう。氷極は両手に雷と氷を発現させては握り締め、感覚を確かめている。
それを一瞥したシュエは、抱いていた疑問を不意に投げかけた。
「ぬしの雷と氷は異様な色を帯びておるの。灰色とはまた珍しい」
「珍し過ぎて、逆に不気味がられるよ。難癖をつけるやつは一人もいないがな」
「なるほどの。ぬしが属する組織もまた特異ということか」
氷極は肩をすくめる。
「否定はできん。だが、居場所ではある。みんな、志は一つさ」
「VICEと、戦うことがか?」
踏み込んだシュエの質問だったが、むしろ氷極は溜飲が下がったような表情をする。
「気づいていたのならいい。まぁ、この世界の共通の敵はVICEだからな。自然ではある」
「あれらは侵略者じゃからな。今までの蛮行を思えば血が逆流するのも致し方なし」
「そうだ。俺はVICEを許せない。獣にも劣る手段で市民を誑かす連中だ。……いや、俺は少し特異な部隊で働いてるからこんな思考になるのか」
投げやりのような言葉に、シュエは怪訝に思う。考えるに氷極が相手にしているのは本当にVICEなのだろうか。傭兵にもVICEと関連した組織と争う者もいる。一概にそのものと戦っている訳ではない、というのがシュエの知識が裏打ちしていた。
「思うのに、ぬしは誰と刃を交える?」
「刃……あぁ。俺たちが相手をするのは、VICEの思想に感化された一般人だ。こいつらは盲信した結果VICEに服従し、力と引き換えに道具となる。俺たちは主にそうしてスパイとなった一般人への予防のような役割だよ」
言い終えると近くにあった飲み水で口を湿らせる。
シュエは確かめるように首肯した。
「……複雑よの。本来守るべきものと殺し合う正義か」
「あぁ。何度も在り方を疑ったが、その歪みの下がVICEであれば、俺は連中が苛烈な悪であるとしか思えない」
「まぁ……そのような見方が一般的ではあるじゃろうな」
「シュエはどう思う?」
訊かれると少し思案顔のまま、指を顎に当てる。
「ふむ……。VICEのそのやり方を切り取るならわしには不相応ではあるの。非道な手段とはあやつらには常識なのだろうが、それで得た結果にその力量は映らぬ。映らねば得た権力に栄光があるとは思わんの」
氷極は意外そうに目を丸めた。
「……辛辣だな。だが筋は通ってる。そんなもの仮初に過ぎない」
「飽くまでわし自身の意見じゃ。あまり間に受けるな」
「分かってるさ」
お互いの頬を撫でる夜風が、硬くなった空気を和らげてくれる。シュエは小さな鍋を取り出し、スープを作り始めた。
時折、聞こえる遠吠えや虫のさざめき。鍋から出る蒸気を見つめながら、訪れた沈黙を二人は受け入れていた。
煮る音が響く中、シュエの腕に一匹の虫が止まる。なんてことはない、小蝿だ。躊躇いも見せず、彼女の親指は潰しにかかった。
突然、シュエの腕が誰かに掴まれる。体を震わせ、何よりその力強さに度肝を抜かれてしまった。
描いた美曲を掴む手、驚きに満ちた瞳をおもむろに上げればそこにいたのは不気味な圧を放つ、氷極だった。
『続』