「よう。久しいな。何年ぶりだよ俺ら」
「ドーグ……少しは緊張感を持てよ」
黒いコートたちを照らすのは、不気味に明滅する街灯だけだ。
冷たい風に靴音がさらわれる。まるで姿形さえも不安定に思えるのは、聳え立つビル群の圧倒的な存在感からだった。シルクハットを押さえる二人の影は、中途半端に遮断されている。
「それで? 例のブツは」
ドーグは周囲を警戒するが、寝静まった都市が返すのは穏やかな寝息のみだ。
そして右手に提げられた鞄を、得意げに叩く。
「バッチリだぜ。中身の確認は?」
「悠長なことをする余裕が今の私たちにあると思うか?」
「言えてるな」
互いに目元をサングラスで隠しているので表情までは分からない。
だが旧友の変わらぬ姿に、ドーグは安堵していた。
「じゃ、取引成立ってことで。死ぬんじゃねーぞ、ザドール」
「お前もな、ドー……」
鞄を手渡そうとした寸前、吹き荒れた風が無理やりに言葉を引き剥がした。
「……グ?」
何が起こったか理解できず、ドーグは手を開閉させる。
二人の間にあった鞄が消失していた。
「お、おい! 鞄が!?」
状況を飲み込んだのはザドールだった。
風を追った先にいたのは、蒼色のフードを被った子供。目線が合うや否や、鞄を抱えて路地裏へと飛び込んだ。
そこでドーグも現実が戻ってきたようだ。
「追うぞ!」
切迫した掛け声と共に、路地裏の暗がりへと二人で身を投じる。
ゴミやゴミ箱が無造作に進路を妨げる。
鞄の盗人が身軽に障害を回避する一方で、同等の身のこなしを求められるのは酷な話だった。
道が十字路に差し掛かったところで完全に見失ってしまう。
「クソ! 大事な仕事なのにっ」
「……最悪だな。暗くて見通しも悪い上に、悪路ときた。あのガキ、もしかして最初から選んでいたな?」
肩で息をする二人を嘲笑うように、ビル風がゴミを撒き散らす。
ドーグは足元の空き缶を蹴り飛ばした。
この路地裏の構造もわからない以上、深追いすれば帰還すら危うくなる。
だが、だからといってこちらも諦めきれない事情がある。子供一人の欲望で、人生の進退が決定されるのは屈辱極まりない。そんなプライドが、二人の捜索意欲に火をつけた。
「ドーグ……久々にやるぞ」
「こんな形でかよ。小便臭いガキの尻追いかける為に」
「手段を選べる状況か? 私たちのバックにいるのが、篤志家の慈悲深い聖女様なら祈り屋の真似事すりゃ赦されるさ。だが、今は違うだろ?」
ザドールの眉間に刻まれた皺。
物事を観測する上で、この男はどこまでも冷徹になれる。状況が切迫すればするほど、目の前の闇が自ずと道を譲るような気迫に満ちていた。
ドーグは愉快げに八重歯を覗かせる。
「いいね、乗った。命張るより、ガキとの鬼ごっこの方がまだ平和的に自分を誇示できる」
「なんだその動機は。その先の話に平和が介在しないあたり不穏でしかない」
「いいんだよ。大人は脳天に鉛玉ぶちこめば黙るが、子供なら力で負かせばいい。マイノリティ教育ってやつだ」
ドーグがシルクハットを被り直すと、右腕を横に構えた。
前腕に光輪のような魔法陣が展開される。真っ黒な視界に、魔性が輝く。
「ヘルメス(失概)」
煌々と陣は転輪していたが、親指を絞めるとドーグの腕に集約していく。
腕に凝縮された光が球体を帯び、親指に変移するとそれを地面へと弾いた。
すると地へと溶け込んだ魔力が、凄まじい光量を伴って路地裏を照らす。
「腕は鈍っていないようだな。安心したぞ」
「目覚まし時計にはちと派手だけどな」
ザドールは軽く笑い飛ばし、コートの懐からマッチを取り出す。
それを薬指に擦ると、火花のように散った魔力からネズミが生成された。
「行け」
使い魔であるネズミは命令に従い、子供が残した痕跡を辿り始めた。地面の光は魔力を濃くしていて、ネズミの反応が非常に鋭敏になる。
二人は焦ることなく、その軌跡を追う。
十字路を左に曲がったすぐのゴミ箱の間に子供は息を潜めていた。
なるべく足を潜めたはずだが、音に敏感なのか反応が早い。しかし距離を詰めれば、華麗な逃げ足に恐れはなくすぐに拘束できた。
「手間をかけさせやがって…!」
暴れる子供の首根っこを掴むと、勢いでフードがはだけた。
ザドールは驚きに声をあげる。
「おっと……大胆不敵な盗人はシスター様ときたか」
流れるような金髪に修道服。胸にある特殊な紋様を見れば、宗派すらも看破できた。
ドーグは鞄を回収すると、怪訝そうに目を細める。
「今どき義賊ごっこか? 神様はいつも見てるって教えにしちゃ、不器用な悪だ。痴漢でももっとまともな免罪符考えるぜ」
「うるさいっ! アンタらみたいな罰当たりは死んじゃえばいいんだ! こんなもの、消えてなくなればいいんだよっ!」
涙混じりの上目遣いには敵意がこもる。
二人は肩をすくめた。
「だとよ。俺たちは罰当たりらしい」
「こういう生き方が染み付いたせいで、今更な気もするがな」
特に何の感慨もなく、無機質な鞄を同時に眺める。
「……にしても、この一件は何かと変だな」
「変?」
「大事な取引にしちゃ、杜撰すぎるって話だよ」
顎に指をあててザドールは思案する。
鞄の中身には国を丸々一つ落とす程の強力な"ウイルス"が機密保管されている。死の派閥が試験用に他派閥へと仮借するものだ。まず、そんなヤバいウイルスを一対一で取引させる神経を疑わない訳がない。
そもそもこの少女の前提として、鞄の中身が何かを知っている素振りがみられた。
大問題に決まっている。明らかな情報漏洩だ。しかし、二人に心当たりがないのが余計に不気味だった。恨みや憎しみが多い人生とはいえ、この情報に干渉できる程の存在の不興を買った覚えはない。
この少女を詰問しても、充分な回答を得られるとも思わなかった。
ドーグは少女の鼻梁に、指を突っつけて唇を尖らせる。
「いいことを教えてやる。大人の世界ってのは真っ当なことしてりゃ飯食えるほど真っ当じゃないんだよ。多少の汚れは誰でもある」
「ふん。そうやって棚に上げるのね。アンタたちみたいなブサイクな人間にはお似合いだわ」
「感謝しろよ。俺は小動物を毎日愛でてるから寛容な心が研鑽されてるが、隣の冷血漢からすりゃお前みたいなクソガキは制裁対象だ」
「おい。私を引き合いに出した挙句、人情味がないみたいに言うな。私は子供に優しい」
ザドールが少女の側まで来ると観察を始めた。
やたらとまばたきの多い瞳を覗き、落ち着きなく足をぶらぶらと揺らし抵抗する様をみて、腑に落ちたように頷いた。
「分かったよ。そういうことだな、クソガキ」
「分かったのか? 誰が漏らしたのか」
「あぁ、分かったよ。この子が偽物の情報をつかまされてるのがね」
少女とドーグが驚愕に目を見開く。
「は、はぁ!? どういうことよそれ」
「まぁ見れば分かる。おかしいとは思っていた。この取引、やたらと過程が粗雑だったからな」
一際冷静なザドールはマッチを取り出し小指を擦る。
その魔力が雫となって鞄に落ちた。
数秒の沈黙。一同が固唾を飲んで鞄を見守る。
ボコボコと鞄が噴水のように液体を放出し始めた。ドス黒い色合いの液体は、鞄の形を失わせやがて虫のような怪人の姿を取る。
「やはりな。ドーグ、一つ悲報がある」
ザドールはマッチの煙を振り払いながら、重くため息を吐く。
ドーグは辟易したように、その光景を見届けるだけだった。
「どうやら私たちは、囮らしい」
続く…?