「ねぇ、あの話どうにかならないの?」
気品のある女性が男に話しかけた。
男は整えた髭を撫でながら、眉間に皺を寄せている。座っている椅子に背を沈めると、蓄積した嫌な疲労が如実に感じられた。
「……どうにもならない。私たちの意志がこれに反映されることはない」
「そんな! いやよ! 下の子なんてまだ赤ん坊なのに!」
女はヒステリックに叫ぶ。しかし、その悲痛な想いが無意味であることは、男女自身が一番よく分かっていた。
「私だって、私だって考えている! VICEに従う以外の道を必死に! だが、残る手段はもうほとんどない!」
女性の泣き声がピタリと止んだ。そして、男へと振り向く。
「ほとんどってことは、あるのね?」
「……ある。だがその場合、私たちは二度とあの子たちに会えなくなる可能性が高い」
「そんなの。あの子たちの将来に比べれば安いものよ! ずっとこの家のしきたりには疑問があった。私たちが無理にそれに従う必要はないのよ!」
男は唸る。最後の手段に賭ける躊躇は、本来であれば筋違いだ。本当に子供の身を案ずるのなら、迷いは不要のはず。
しかし、彼には予感があった。自分の知らない場所でもっと大きな闇が蠢く気配。自分たちの思惑すら飲み込まんとする巨悪の吐息が微かに耳元で掠れている。
「……本当に愚かな父親だ」
小言のつもりだった。だがその破片は心の奥底まで突き刺さっている。鈍い痛みは強烈に、彼の情動へ大きく作用した。
「分かった。その手段でいこう。もうなりふり構っている暇はない」
意を決した男の表情。
女の顔には生気がないが、男の言葉に希望を見出し、縋り付くような悲哀がこもる。
ゆっくりと吐息を吐き、執事を呼んだ。
「……あの組織に伝えてくれ。進めてくれて構わないと」
執事の顔に緊張が走る。
だが、男の表情を見やると意を汲み、深々と礼をしてその場を去った。
男は立ち上がる。子供たちのことを思えば今の決断など大したことではない。だが、後悔はある。この判断で今後の局面がどう転ぶかだ。
結果、子供たちに危害が及べば無力さを痛感するだろう。それでも可能性に賭けない理由はない。
窓を外を見る。
世界は一面の雪化粧だ。夜の闇もあって、どこか幻想的な風景にも見える。
冷たい闇は静かだった。いっそ、この闇の中に家族全員溺れられれば、どれほど安らかなのだろうと。
男の脳内では、最悪な連想が掻き立てられていた。